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千葉科学大学での講義-DAY2-
2022年2月5日、千葉科学大学 社会人大学院生に向けたロジカルコミュニケーション演習へ行ってきました。
今回は印象力に関しての授業で実践トレーニングが盛りだくさんの内容です。
はじめる前に今日、守ってほしいルールとしてマイナス発言をしない!もし、マイナスな発言をしてしまったら、必ずプラスの言葉を続けて発言することが約束です。と伝えましたが、実践の課題が出るたびに、「え~」「できない~」「むずかし~」等の声が次々と聞こえてきます。 笑
そのたびに、「あれ?今、え~!って聞こえたけど?」気のせいだよね?と聞いていくと、生徒さんも照れ笑いしながら、「えーと、え~、楽しいなぁ~」などとプラスの発言に切り替えることで和気あいあいとした雰囲気になり、とても楽しい時間の中で実践授業が進んでいきました。
振り返ると、日々の中で意外とマイナス発言を繰り返していることに気づくものです。
意識することでマイナス発言が減っていけば、気持ちも思考も前向きになります。
普段使っている言葉がどんな影響を自分や、周りに及ぼしているか感じた時間でもあったと思います。
また、人に与える印象が、人間関係、信頼関係を構築していく中でとても大事であること、特に第一印象の大切さを実感していただいたのではないでしょうか。
普段自分がどのような表情で人と接しているのか鏡を通して、また、ビデオ撮影し、カメラに映る自分の姿をみて振り返ると、表情や声のトーンに至るまであまり良い印象を人に与えていない自分の姿に驚き、それと共に実際の映像を見ることで言い訳できず受け入れざる得ない状況でした。
問題はできていないことではなく、良い印象を与えていないのなら、何をどのように直していけばいいのかを知り、理解し出来るようになるまでトレーニングして身に付けることです。
授業では一人ひとりの話す癖や、表情の癖などを伝えトレーニングしながら時間が進んでいくと、最後の授業の時間では笑顔が素敵な皆さんに変身しており、良い印象を与える側になっていました。
もし、現在の職場で雰囲気が良くないとか、人間関係に悩んでいたとしたら、一つの方法に過ぎませんが、印象力に注目してみるのはいかがでしょう。
何かを変えたい、あの人を変えたいと望むのであれば、まずは自分から変わることです。
自分は与える側に立っているのだろうか、矢印をちょっと自分に向けてみるといいかもしれませんね。
今回もあっという間の1日でした。
ありがとうございます。
愛の反対は無関心。
マザー・テレサの有名なことば。
「愛の反対は無関心である」
人にとって「無関心」(=関心を持たれないこと)はもっともつらいことなのかもしれません。
逆の言い方をすれば、「関心」を持ってもらえることは「報酬」です。
お金以外の報酬で「成長」や「刺激的な出逢い」や「仲間・居場所」など多様な報酬がありますが、根底的なところで重要なのがこの「関心」なのかもしれません。
みなさんは周りに「関心」をしっかり払えていますか?
みなさんは上司や同僚、部下に「関心」をしっかり払えていますか?
「関心」は「想う」ものではなくて「払う」ものです。
何事も「想う」だけでは何も起こりません。
「想ったことを行動にする」この行動こそがここで言う「払う」になります。
「関心を持っている」だけではダメで、「関心を示す・払う」ことがとっても重要です。
D・カーネギーは有名な著書『人を動かす』で「誠実な関心を寄せる」ことの重要性について説いています。
人にとって「関心」ほど大切なものはないのかもしれません。
逆に「関心」を示せていないということは、相手につらい想いをさせているかもしれません。
よく「管理職に必要な能力、成果を出す力とは何か」とい聞かれます。
テクニカルな部分では、「話し方」や「聞き方」といった話があるかもしれない。
褒めたり叱ったり、数字を見たり、交渉力や政治力にもそれなりのレベルが求められるでしょう。
だが、たくさんの会社、現場を見てきて思う。
管理職の能力の中核は「人への関心」です。
人好きでなくてもよい。人への信頼がなくてもよい。ただ、「人への関心」は絶対に必要な事項である。
以前あるIT業の人事評価面談に同席していた時のこと。
高いパフォーマンスを出した部下に対して、上司が高評価を伝えると、彼は怪訝な顔をした。
「何か不満があるのか?」と上司が聴くと、彼は「あっさりしてますね。」と言った。
彼は、その後しばらくして、会社をやめた。
「急に虚しくなった」と同僚に言って。
彼はおそらく、ねぎらいの言葉が欲しかったのだ。
心理学者のミハイ・チクセントミハイ氏は「関心を持たれていること」は人にとって非常に重要な事だと、子供の例を挙げている。
子供は両親が自分に何かを期待しているということ、そしてもしその期待に添わなければ、ある特別な結果が生じるということを知らなければならない。
しかし彼らは同時に、何が起ころうとも両親の自分への関心には疑問の余地が無いことを認識していなければならない。
期待に添えないことで、失望されたり、叱られたりすることは子供にとっては必要な過程だ。
だが、失望や叱られたりするよりも、もっと重大なのは「関心を失われてしまうこと」である。
このように、上司に求められることは、「部下の一人ひとりへの関心」に尽きる。
人間への関心がある人物は、たとえ怒鳴ったり、人として未熟であっても、それなりの人望を集めることができる。
パナソニックの創業者、松下幸之助の腹心であった江口克彦氏は、松下幸之助の「人への関心」について、つぎのようなエピソードを紹介している。
ハーマン・カーンという、著名人が来日し、滞在中に松下幸之助と面会することになった。
予定日の10日ほど前のこと、松下幸之助と雑談していると、突然「ハーマン・カーンと言う人はどういう人か知っているか」と聞かれた。
「アメリカのハドソン研究所の所長で、未来学者です」と答えると、松下は、頷きながら、「そうか」と一言。
ところが翌日も「ハーマン・カーンと言う人はどういう人か知っているか」と、同じ質問をされた。
「また同じ質問?」と思いながら、全く同じ回答をすると、松下幸之助も、昨日と同様に「そうか」と言った。
そして、その翌日もまた、全く同じ質問。同じ答。
江口氏は、なぜ同じことを連日3回も聞くのか、と、ふつふつと腹がたったそうだ。
ところが松下幸之助を見送りながら、江口氏は突然「何回も同じことを聞かれているということは、他の情報をよこせ、ということではないか」と感じた。
すぐに本屋に行き、ハーマン・カーンの著作を読みレポートを作り、カセットテープにその内容を吹き込んだ。翌日、松下幸之助がまた同じ質問をしようとした時、調べたことを必死で報告し、レポートとカセットテープを渡した。
松下幸之助氏は熱心に聞き、質問もしてくれた。
そして、その翌日。
翌朝、車を迎えドアを開けると、降りてきた松下が私の前に立って、私の顔をじっと見つめる。
思わず身体が硬直、直立不動していると、松下は、なおも私の顔を見つめながら「きみ、なかなか、いい声しとるなあ」と言った。
その瞬間、私は、身が震えるほど感動した。その言葉が、昨日渡したテープを聞いた、ということだけではなく、よく気が付いたな、よく調べてくれたな、内容もよかった、さらに、テープに吹き込んでくれた、ありがとう、ということなど、すべての思いを込めた一言であると直感した。
そして松下が、自分の思いを気づくまで、辛抱強く、質問を重ねてくれたんだということ感じた私は、そのとき、ああ、この人のためなら、死んでもいいとさえ思った。
この記事こそ、上司と部下の関係の本質を表現している。
江口氏は松下幸之助の「自分へ対する関心」に始終興味を持っている。
松下幸之助に興味を持ってもらえないときには動揺し、興味を示してもらえれば、心の底から感動する。
人間とは、かくも「上位者の自分への関心」に右往左往するものなのだ。
したがって、人に興味がない人は管理職になってはいけないとも言える。
「好き」でなくともよい。
「本心」である必要もない。
「研究対象」という程度でもいい。
だが「人への興味」を示さなければ、その時点で管理職たる資格はないと言える。
そして人に関心のない管理職は、職場に不満と絶望を振りまくだけの存在となるだろう。
「愛の反対は無関心である」 大切な相手に関心を示せているか、こういう機会にぜひ一緒に考えてみましょう。
有能上司・無能上司。
「この人から仕事をとったら、きっと誰一人としてこの人の元には残らない」
そんな強烈な記憶を未だに残すあの上司の元で働いていた時の自分と、
今の働いている自分の姿を重ねるとどうしても考えずにはいられない。
「社員を活かすも殺すも上司次第なのではないか?」もちろん全ての責任を押し付けるわけではないですが、それほどの影響力があるという事だけは、見てきたものや経験してきたことが自分自身に証明している。
まだ若い20代の頃に勤務していたその会社では、自分自身が一体なにと戦っているのかすら分からなくなっていた。
到底理解できない上司の行動や言動。
あきらかにキャパを超えた業務。
女性だからという理由で決して認められることのない成果。
セクハラやパワハラ。
擦り減っていく自分自身。
無くなっていくやる気。
もう、思い出せばきっとキリがない。
確かに、得たスキルは大きかった。だが、もし今過去に戻れたとして、希望の年収でその会社に入れたとしても、私は決して「そこは選ばない」
無能な上司は部下の心を殺すのだ。
向上心・やる気・熱意・努力・愛社精神。
これらは絶えずあふれ出ているものではない。その大部分は引き出されているものなのである。
自分の本当の実力が知りたくて、飛び出したその先に待っていたのは、
有能な上司は部下の心を生かす(活かす)のだ。という答えだった。
なぜそんな風に思えたのか。
おそらく、出会った人が「理想の上司」に当てはまっていたからではないか。
では、「社員から見た理想の上司・ダメな上司」とはなんなのでしょうか。
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理想の上司とは、
「人として尊敬できること」
そもそも、「尊敬すべき所が見つけられない」「尊敬するに値しない相手」に対して、いったい誰が「この人の元で仕事がしたい」「言う事を聞いてついて行こう」と思うのでしょうか。
どんな理由よりもまず、「人として尊敬できる部分」がなければ、到底、「上司」とは認められないのではないだろうか。
「決断力があること」
実務の状況や部下の仕事ぶりを見極めた上での「適切」なアドバイス、そして、熱意は胸に抱くだけではなく、物事を前に進める「決断力」がなければ、部下を導くことはできないのではないか。
「広い視野を持っている」
狭小な視野でしか物事を見る事ができない人間は、部下を正当に評価することができないし、物事を断定的にしか見ず、決めつけたりするものである。
また広い視野とは、柔軟に物事をみれる事ともイコールであると考える。
自身の考えやこだわりだけにとらわれず、物事を柔軟にみることができ、幅広い見地から物事を俯瞰できる上司であることが求められるべきである。
「人間力」
どれだけ仕事ができる人でも、「人間力」がなければ誰もついてこないのです。
人として当たり前の事もできないような人材は、そもそも人の上にたつ資格がないのではないでしょうか。
では逆にダメな上司とは一体何でしょうか。(理想の上司の対極も含まれるとは思いますが)
決断力に欠ける
最悪な上司は、問題に対して徹底的な分析をするのに、暫定的な決定を行っては、何度も検討しなおします。対照的に、素晴らしい上司は即断即決、一度決めたことを容易に覆すことはありません。
「決断できないのは根本的な失敗である」と理解しているからです。
忍耐力がない
最悪な上司は、気が短く、社員にすぐ当たり散らします。
対照的に素晴らしい上司は、感情を抑え、社員がより重大で多くの間違いを犯さないために威圧的な態度は避けます。
外面だけがいい
最悪の上司は、スポットライトの前に立ちたがり、チームの成功を独り占めしようとします。
対照的に素晴らしい上司は、実際に仕事をしてくれた人たちの努力なしに上司としての仕事は務まらない事を常に知っています。
融通が利かない
最悪な上司は、過去に成功した方法をいつまでも繰り返します。
それが現代では通用しないような古い話だったとしてもそれをやめようとはしません。
対照的に素晴らしい上司は、過去の成功を慎重に扱います。
何故なら「今日の成功を導いた軌跡が必ずしもこれから目指そうとしているゴールまで導いてくれるとは限らない」からです。
他人のせいにする
最悪の上司は、仕事がうまくいかないと、他者を名指しで批判したり責任を転嫁しようとします。
対照的に素晴らしい上司は、チームの失敗がリーダーシップの失敗であることを認識しているので、チームに責任を押し付けることはありません。
責任をとるのは自身の役目であると認識しているからです。
感謝をしない
最悪の上司は、自分を「自らの努力によって」成功した人間だと思い込んでいます。
なぜなら、これまで一生懸命仕事を頑張ったからです。
素晴らしい上司は、今ある自らの成功は自身を支えてくれた人たちのおかげであることを常に意識しています。
理想で語ることは簡単です。
人間ですから、上記で述べた要素を全て満点に兼ね備えたパーフェクトな上司など存在しません。
この人のようになりたい。
この人の元で仕事をしたい。
学びたい。
近付きたい。
成長したい。
認められたい。
ほめられたい。
力になりたい。
単純にそんな風に思えた時、それはとても素晴らしい上司に出会っているのかもしれません。
あなたにはそんな上司はいますか?
あなたが上司になった時、どんな上司になりますか?
あなたはそんな上司になれていますか?
あなたがなりたくなかった上司になっていませんか?
無能な上司は部下の心を殺すのではなく、部下の心を生き生きと活かす。
それが上司の一番のやりがいになり、部下が上司の心を育てることになります。
そしてそれこそが上司である自分自身を活かすことになるのです。
上司が部下を育てる。そして部下が上司を育てる。
この原理原則を忘れてはいけません。
千葉科学大学での講義。
2022年1月23日。
この日はありがたいことに昨年に続き、担当の先生よりお声がけいただきまして、
非常勤講師として千葉科学大学で社会人大学院生に向けて講義をさせていただきました。
担当の先生と二人三脚で3回に渡り終日行います。
前回に引き続き、今回もコロナの影響でZOOMにて生徒さんと向き合いました。
授業の内容はロジカルコミュニケーション演習になります。
1回目の講義はエニアグラムです。
一人ひとり診断しながらどのタイプに属するか、またそのタイプ別の特徴、気質はどのようなものなのか例題や課題に取り組みながら理解してもらえたのではないかと思います。
現状の課題も含め、エニアグラムでいうところの変わらない気質がどのような形で影響を及ぼし日頃出てくるのか、タイプによって考え方や表現の仕方が違い、参加者同士で自分とは違う回答に驚いたり、面白がったりしながら、楽しく授業が進み、あっという間に時間が過ぎていきました。
1日を振り返っての感想では、明日から早速職場で対応してみます。と意気込んでいる生徒さんや、授業のはずなのになぜか気持ちが軽くなった。と発言する生徒さんもいました。
自分のことは知っているようで意外とわかっていないことが多く、自分のことがわからないのですから、他者のことはもっとわからないですよね。
今回は自分を知るきっかけになったり、多くの人の集まり、コミュニティの中で生きる私たちは、一人ひとりみんな違うんだ、ということを認識し理解することで周りとの関わり方が見えてきたのではないかと思います。
社会人になっても人間関係に悩み、その解決策がわからず苦しむ人を多く見聞きします。
今回の生徒さんも対人関係で悩み苦しむ時間があったようですが、授業を通じて明日への希望を胸に笑顔で過ごすことができて良かったです。
誰かと関わり、その人が何かに気付き前を向いて進んでいく姿を見るたび、本当に教育の大切さを実感します。
次回は2月5日です。
私も学ぶ機会をいただけてとても感謝しています。
感情の話。
自分以外の人間に対して、苛立ちを覚えたことがない人はいませんよね。
苛立ちの度合い、その表し方は人それぞれで異なります。
手が出る人(ちょっとオーバーですが)、怒鳴り散らす人、黙り込む人、泣く人…etc
「とにかく心が不快である」という共通認識以外は千差万別ですね。
個人的に言ってしまうと、声をすぐ荒げる人や、怒鳴る方においては、人格を疑ってしまいます。もちろん筆者も完ぺきな人間ではないので、過去に怒鳴ったり、声を荒げたりしていたこともありますが、ここでは棚に上げさせてください。
ただいつの頃だったか、とても些細な事でしたが、涙が出るほどハッとさせられたことがあってからは、「苛立ちの本質」というものを考えるようになりました。
きっかけは今よりもまだ幼かった子供との一幕でした。
当時、子供の就寝時間はきっかり21時と決めていました。
21時には絶対に布団に入れるようにと。
別に21時に何かあるわけではありません。ただ、子供は21時には寝かせなくてはいけない。という考えのもとに成り立っていた我が家の決め事です。
当時、ひとり親だったこともあり、仕事が終われば実家に子供を迎えにいき、自宅には寝に帰るだけ。
というようなスタイルでした。(ご飯やお風呂などは実家で終えている)
仕事がとても忙しく、帰宅時間が深夜0時を回ることもよくあったので、実家に泊まることも多かったです。実家のおばあちゃん(筆者の母)も、21時は寝かせたいという意見には賛同していたので、おおむねそのような動きになるように時間配分を考えて、代わりに子育てをしてくれていたことでしょう。
もちろん実際に私が一緒にいるわけではないので、本当に21時に就寝していたかは分かりませんが。
21時までに実家ではなく、自宅で寝かせることができるぐらいの時間にお迎えができた日には、21時までに全ての準備を終わらせ寝かせる。そこからが家事や自分自身の時間。
起床時間は当時、毎朝早朝5時頃だっただろうか。そこから逆算して考える。
起きるのが5時だから○○時までには寝たい。その時間に寝るために○○時までにあれをやって、○○時までにこれをやって。
子供が布団に入るまでの間、常に脳内はそういったスケジュール管理のようなタスクがループしている。
その結果、とにかく急いで!早く準備して!どうして今そんなことしているの?と声を荒げながら言うことが口癖のようになり、内容によっては怒鳴ることもあった。
子供の寝顔を見て、罪悪感を感じながら家事をする。そんなこともよくある日常になっていたある日の21時少し前。
その日も例外なく、いつものように荒げた声で口癖が飛び交う。
そして子供は21時に布団へ入りおやすみと言う。
そう。それでいつもの一日が終わる。…はずだった。
「どうして21時なの…?21時になにがあるの?どうしていつも早くするの?
21時に寝てない子だっているよ?起きていていい時間が増えたらママとも遊べるのに」
その時の顔が、今でも忘れられないのです。寂しそうに少しはにかんだ顔が。
投げかけられたその問いの返事を考えるより前に、涙が出る方が圧勝していたのです。
と、まあ。
苛立ちの本質。というものを考えるようになったきっかけをお話しましたが、子育てブログになりそうなのでこの辺で本題へ。
要は何がいいたいのか?
なぜあんなにも苛立っていたのだろうか。
21時に寝かせないといけないから?もちろん遅すぎるのは問題だが、なぜそこまで頑なに守る必要があったのか?子供の言うように、21時にいったい何があるのだろう。
子供の成長のために絶対早く寝かせたほうがいい。もちろんそれも本心だ。
21時に寝かせて、そこから家事をやり、自分のことをやる。
頭の中にはさんざん組み立てていたスケジュールがある。
そうだ。私は、自分の描いていた(理想としていた、望んでいた)通りに事が運ばないことがたまらなく許せなかった(嫌だった、不快だった)のではないか。
寝る時間が21時より遅れれば、当然私の組み立てていた完ぺきなスケジュールもずれ込み、結果睡眠時間も削られてしまう。
極端に言えば、自分の思い通りにならないから苛立っているのだ。
子供は、わざと遅く準備をしていただろうか?
21時に寝ることを嫌がっただろうか?
いや。そんなことはなかった。
普通に準備をしているのに早くと急かされ、怒られ、そしてその明確な理由は分からないまま。
そんな積み重ねが、子供の中で少しずつ疑問へと変わり、もっと起きていれればママと遊べるのに。
という寂しさからくる本音となって姿を現したのだと思った。
これが大きなきっかけとなり、少しずつ考え方も変わり、苛立ちの本質をよく考えるようになりました。
面白いことに、これって、仕事でもほとんど同じだと思います。
社会に出ると、よく声を荒げたり、怒鳴ったり、電話態度が悪かったり、なんて場面をよく見ますよね。
たとえば、上司が人前で部下を怒鳴っている。その理由って何なのでしょうか。
よくある理由にしても、稀な理由だったとしても、要するに、
「自分の描いていた(理想としていた、望んでいた)通りに動かなかった」
これが本質なのではないでしょうか。
でもきっと怒鳴られた部下からすれば、その時はそれが正しいと思ってやった結果でしょうし、ましてや、「怒鳴った上司を不快にしてやろう、望んでいるのとは反対のことをしてやろう」なんてことは考えていないはずなのです。※稀なケースを除いては
そもそも、仕事でもなんでも、何事もなく全て思い通りにいくはずなんてないですよね。
だって自分ではない人間の考えなんてエスパーでもない限り分からないのですから。
実の子供だって分からないのですから。
さて、話がややこしくなりましたが、人が苛立つことの本質は、その大半が自分の思い通りにならないからという人間の身勝手である心理からきている。というお話です。
苛立った時、いつも、いったん考えてみます。
例えばきっかけとなった子供との内容の時は、「なぜ21時にこだわる必要があるのだろう?
確かに早く寝かせて成長を促すのは子供にとってなにより大事だが、果たしてそれを守らなかった日があったとしても、別に何かあるわけでも、死ぬわけでもない。」
結局自分の都合でしかないじゃないか…と。
その分10分でも、いや、5分でもいいから寝る前に子供と話をすれば、その10分、5分多く寝ていた時よりも、もっといい効果があったのではないか…と。
これ、苛立っているときはもちろん難しいですが、冷静にその苛立ちの本質を考えるように意識づけすると、確実に以前より沸点は下がります。
そして沸点が下がると、確実に周りとの関係に変化が生まれます。
だまされたと思って、意識づけをやってみると、価値観そのものも変わってくるのです。
そしてその意識づけがされてくると、人前で怒鳴っている人や、声を荒げている人が可哀想に思えてきたりもします。
もちろんこれまでに述べてきたことが、全ての事柄に当てはまるとは思っていません。
ですが、私たちが思っている以上に苛立ちの本質というものは、
「自分の思い通りにならないからという人間の身勝手であるが故の心理からきている」
という事を認識する必要はあるのではないでしょうか。
ホームページをリニューアルいたしました。
平素は格別のお引き立てを賜り誠にありがとうございます。
さて、この度当社ではホームページをリニューアルいたしました。
今回のリニューアルでは皆さまに、より見やすく、また情報を分かりやすくお伝えできるホームページとなるように、デザインや構成を一新しております。
これからも、一人でも多くの皆様に美生學をお伝えするため、また、ご満足いただけるサイト作りを目指してまいります。
今後ともよろしくお願い申し上げます。